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玉木新雌のルーツ、福井・勝山を巡る。
〈前編〉
玉木新雌のルーツ、福井・勝山を巡る。
〈前編〉
〈前編〉
〈前編〉
2024 . 05 . 06
福井県勝山市。玉木や酒井が生まれ育ったまち。周囲を山々に囲まれ、福井県を貫く九頭竜川が流れる広やかな盆地に位置する歴史豊かな城下町は、現在、「恐竜のまち」としても知られている。
2月の下旬、唯一無二の「一点モノ」作品を日々新たに量産し、ファッションの枠組みを超えて「Nature Brand」を掲げる「tamaki niime」の代表・玉木新雌そして酒井義範を豊かに育んだ故郷を訪ね、この“特異な”ブランドの根源を探る旅に出てみた。
折しも、江戸時代より300年以上の伝統を誇る郷土の一大祭である「勝山左義長まつり」がコロナ禍を経て4年振りに完全復活し開催されるという絶好のタイミング。
「勝山に行くなら左義長の時期が良いですよ。」玉木の実妹である睦美からもそうおススメされていた。
地元市民が自ら「奇祭」と呼び、玉木が幼少期から櫓(やぐら)に登り心弾ませ演じ、酒井が“クレイジー”だと誇らし気に笑みを浮かべるこの祭をぜひとも体感してみたい…今から8年前に雑誌『暮しの手帖』の特集記事を目にして以来、「左義長」に心惹かれていただけに、遂に念願叶った私だった。
玉木家が長年経営する洋装店「ボンタマキ」を訪問し玉木の母である和美さん、兄である大輔さんにインタビュー取材もさせていただいた。
景観・風土・祭・食・織物・寺院・恐竜・文化…そして、何より人。実り多かった今回の旅ですっかりこのまちに魅了されてしまった私。今も滞在の日々が鮮やかにフラッシュバックし興奮と感動がぶり返す、そんな“かっちゃま”(勝山)訪問記を、ここにお届けします!
2月23日午前10時12分。大阪発金沢行きの特急サンダーバードに乗り込み、私は一路福井へと向かった。
この日は天皇誕生日で祝日、3連休のスタートとあって自由席はほぼ埋まっている。湖西線周りの列車は琵琶湖を右手に観ながら快調に走って日本海側の港湾都市・敦賀へ。3月16日のオープン間近、北陸新幹線の高架新駅の威容を見上げる。
新幹線の敦賀~金沢間の開業後は敦賀止まりとなるサンダーバード号は名残惜しい線路をひた走り、12時過ぎに福井駅到着。目指す勝山へはここでえちぜん鉄道に乗り換える。和美さん、大輔さんにボンタマキでの取材を申し込んだ約束の時間は午後3時。
腹ごしらえに駅を出た。3頭の福井産恐竜の実物大モニュメントが県の玄関口である駅前広場でお出迎え。振り返ると駅ビルの壁面にも巨大な恐竜が。「DINASOUR KINGDAM FUKUI」の文字が輝く。福井県立恐竜博物館はこれから向かう勝山にある。玉木の故郷は県イチ推し、振り切った恐竜観光の目玉スポットを持つ街でもあるのだ。
新幹線開業に向けたリニューアル工事が大詰めのJR駅に隣接してえちぜん鉄道の駅もあった。ローカル鉄道らしからぬ、モダンにデザインされた構内。改札で駅員さんに切符にハサミを入れてもらうアナクロ感との落差が愉しい。そしてエスカレーターで高架ホームに登ると待っていた電車は1両のみ。…何やら、西脇市へと走るJR加古川線を彷彿とさせるではないか!
12時55分に各駅停車の勝山行は福井を出発。数駅を過ぎて高架から地表に降りたえちぜん鉄道は途端にローカル線の趣きに。ひなびた無人駅を結んで福井平野をコトコトと走る。若い女性の車掌さんがアナウンスや運賃清算など車内業務を担当している。乗客対応も親切丁寧でほっこり。
名刹・永平寺の最寄り駅・永平寺口の辺りから九頭竜川に沿った谷を一両電車は辿り、白く雪を戴いた峰々が雄大な姿を現した。ダイナミックな景観に目を奪われる。ネットで下調べした時に勝山は日本有数の豪雪地帯とあった。幸いにも平野部に雪はない。明日のお祭り一日目は快晴の予報だ。
やがて緩やかなカーブを描いて流れる九頭竜川に並走する電車の窓から丘陵地にある白銀の巨大な卵型のドームが見えてきた。車内アナウンスはそれが恐竜博物館だと教えてくれる。
午後1時48分勝山着。小一時間の電車旅。ホームへ降りて出迎えてくれたのはレトロな木造の駅舎。年輪を刻んだ勝山駅の建物は大正3(1914)年に旧越前電気鉄道が開通した当時からの歴史ある建築で、国登録有形文化財。勝山市がえちぜん鉄道から駅舎を無償譲渡され改修、2013年に完成したものだそう。昔ながらの改札に面した駅員室や窓口、待合室から漂うなんとも言えない懐かしさといったら!
整備された駅前のロータリーには恐竜博物館直行バスを待つ人の列。駅の施設とバス乗り場の他にはほぼ、なんもない。だが、その簡素な風情が逆にまた郷愁をそそるのだ。勝山の市街地は川向こうにある。グーグルマップで確認すると、市の中心部に位置するだろう目指すボンタマキまでは目の前の広い通りを一本道で、歩いても15分ほどの距離だ。
恐竜の背中をイメージさせる緑色の曲線がうねるデザインの勝山橋へ向いて歩く。堤防に出た。目の前に雪山のパノラマと川幅広くゆったりとくねるような九頭竜川の雄々しい流れ、そして川に沿った段丘に広がる勝山のまち。四方を山に囲まれながらも広々と、悠々とした大地と川面。シンプルこの上ない駅前からの動線の先に展開するこの素晴らしい景観に、私はすっかり魅せられてしまった。ここが玉木や酒井のふるさとなのか!!
歩道の幅もゆったりな橋の上からの眺めがまた素晴らしい。前方左手奥に電車からも見た建築家・黒川紀章が手がけた卵型の恐竜博物館。反対側の右手には仏殿のような大きな建築と五重塔が。ネット検索してみると、大師山清大寺の建物で「越前大仏」を安置する、東大寺を上回るスケールの大仏殿と高さ日本一の五重塔であるとのこと。太古の恐竜化石を展示するモダンアート建築と巨大な寺院建築を両端に置いて、勝山のまちはあるのだった。
橋を渡り切ると恐竜像がお出迎え。目の前の広い通りのあちこちに緑・黄・赤の3色の短冊が吊り下げられ風に揺れている。左義長の飾り付けだ。通りの右側を更に歩くと収納庫から出された櫓(やぐら)のそばを通った。背が高く見上げるほどに立派な舞台だ。駅で手に入れた祭りのガイドパンフレットによると各区ごとにそれぞれの櫓があるようだ。
なお進むと広い通りが急に坂道になり、台地の上に出た。左手にはショッピングセンターが現れた。もうすぐ約束の時間・午後3時。再びグーグルマップで確認するとそろそろボンタマキのお店がある地点。趣きのある瓦屋根が特徴的な2階建ての町家風の建物が目に入る。側面は白く塗られている。店の傍らに立ってこちら方向を見やる男性と目が合った。もしかして…。そう、待ってくれていたのは玉木のお兄さん・大輔さんだった。
営業中の店内へと招き入れられる。入ってすぐ、梁を出し全体が白塗りされた吹き抜けの天井が高い。右手にtamaki niimeのロゴを鮮やかにあしらった大きな白布、その下にショールをはじめ色とりどりの作品たちがレイアウトされている。お母様の和美さんとスタッフの方お二人も待っていてくださった。白を基調に明るくアットホームな空気が居心地良い洋装店の店内。取材中もお客様が切れ目なく訪れる。
「“さぎっちょ”の準備をちょっと抜けて来たんですよ。」柔かにそう話す大輔さん。
「明日あさってが本番で、月曜はまた片付けだから。「左義長」気狂いなんで(笑)。」と、テーブルの隣りで和美さん。
お店もあるし無茶お忙しいタイミングだったな…と、まずは恐縮と反省。汗)
大輔「だいじょうぶだいじょうぶ。うん。」
和美「賑やかで…。一度祭りに西脇の皆んなを招待したいなと思うくらい。」
大輔さんがおもむろにスマホの写真を差し出す。
「これ、新雌。小学生の頃ですね。」
「かわいいでしょ?」とお母様。
大輔「家にあった写真を最近見つけてね。画像データにして取り込んで。」
—— ご本人見てないでしょう?
大輔「見てないけど平気ですよ。これが睦美。」
—— 似ておられますね、やっぱり。
「niime百科」をはじめ数々の取材の機会に玉木が語った勝山での子ども時代のこと。印象的なエピソードについて、ご家族にも聞いてみたかった。
—— 赤ちゃんの頃お店に寝かされていて、お客様に可愛がってもらってた記憶があると聞きました。
大輔「元々はここの場所じゃなくて実家の方で店をやってたんで。ちびっ子の頃ですね、きっと。」
和美「金沢にもお店があったので、籠に入れて連れて行って。そういえば台の上にいましたね。一年ほど。静かなおとなしい子だったから。」
—— 大阪・船場の問屋街への仕入れに一緒に連れて行ってもらい、お気に入りの服を選びコーディネートを愉しんでいたというお話も。
大輔「あれってなんでやろう?学校がない時やったんか?」
和美「春休みだとか、学校がお休みで行ける時に連れてったんだと思います。こっちが商談してる間に勝手に好きなものを選んでたみたいです。」
大輔「いろんな服を売ってる。大西衣料さんとか、プロルート丸光さんとか。」
和美「好き嫌いがはっきりしてて嫌なのは着ないとかね。朝、服を着る時に重ね着でダブつくのがイヤで。ほんとにちっちゃい時から、着心地というか着やすさとかにこだわりがあって朝大変でしたよ、学校に出すのに。」
—— モッサリしてるのがイヤだったと。
和美「そうなんです。スッキリしてないと。」
—— (笑)。お兄さまの方はどうでした?
大輔「僕はそんなこだわりはないです。もうなんでも。」
—— 睦美さんも?
大輔「睦美もこっち寄りかなぁ。」
和美「皆さんからどうやって育てたの?ってよく訊かれるんですけど、なんにもないね…。(笑)。」
—— 自立しているような子どもだったと。
和美「3人兄妹の真ん中だったから、どうしても。世話を焼かない。長男は…。」
大輔「焼かれたな。」
和美「一番下(の睦美)もだいぶ歳が離れてるから焼かれて。真ん中だけほっとかれたもんだから。今にして思えばそれがよかった、って言ってくれてますけれどね。」
—— 私もやっぱり長男なんですが、長男ってわりと大事にされて…
大輔「そう。ねぇ?」
和美「一から十までねぇ。」
大輔「でも…(新雌は)子どもの頃はもうちょっともの静かな人間だった気がする。まぁ、アタマの中は何考えてるのかわかりませんでしたけど。」
金沢に新しい店舗を構えた時に、玉木の亡き父・達雄さんは片道1時間半以上の道のりを勝山から車で通う毎日を始めたという。兄妹が小学生だった頃のことだ。
大輔「朝早く家を出て夜帰って来てまた朝早く出てゆく。小学校から中学、高校…もうずっとです。小学校の頃にワゴンの後ろにマットを敷いて我々子どもたちはそこに寝ながら金沢に連れて行かれた記憶もありますし、それで大阪まで服の買付けに行くみたいな(笑)。今でこそ道が良くなってますけど、昔は山道長いな~と思いながら乗ってた覚えもあります。」
—— もともとはおばあさまがお店を始められたと伺ってますが。いつ頃のお話なんでしょうか?
大輔「どうだろう…80年くらい前になるのかな。」
—— 老舗ですね。
和美「それくらいになるやろね。」
大輔「オカンで50年くらい?」
和美「ちょうど50年目!お祝いせないかんね(笑)。紅白のおまんじゅう?」
—— この場所に移って何年くらいですか?
大輔「ここは僕が小学校の頃やでぇ…42年ってとこやな。金沢はいつやった?」
和美「新雌がまだ生後半年くらいの時にカゴに入れて、そのまま商品の棚に置いてました。だからもう46~7年だと思います。」
—— もともとの始まりはやはり洋装店だったんですか?
和美「衣料と…もともとは“何でも屋さん”やった。昔でいう「百貨店」。家族経営の。」
大輔「今でいうとホームセンターみたいな。色んなものを置いてた。」
和美「毛糸から靴下から、のし紙まで。」
—— おばあさまはどんな方でしたか?
大輔「細かいっていうか…何て言うんやろな?」
和美「おばあちゃんはしっかり者だった。」
大輔「家系やな。ばあちゃんの親から商売を始めて。」
和美「古物商みたいなの始めて。おじいちゃんの方は魚屋さん。おじいちゃんは大人しい人で、言われたまま。」
大輔「そうそう。仕事を手伝う的な(笑)。どっちかって言うとオヤジとオカンもそんな感じやったし(笑)。」
和美「そんなアホな(笑)。私はやさしいよ。」
—— 女性が強いという(笑)。
和美「その血を引いてるんじゃないの?」
—— 子どもの頃の新雌さんてお兄さんから見てどんな風に映ってましたか?
大輔「僕的には静かなヤツだなぁと思ってましたけどねぇ。その頃と比べたらなんかアグレッシブになったなぁとは思いますけどね。内面的にしっかりしてる感じはありました。」
—— 内に秘めたものが。
大輔「そう!やることが細かいというかね。何やるんでもけっこう、キッチリキッチリやってたと思います。勉強とかも。…誰に似たんだろう?」
—— お店のお手伝いでDMの封筒入れをしたとかご本人から聞きました。
大輔「そうゆうのは手伝ったんじゃないかな。僕はやったことない(笑)。まぁ、そうゆう細かい作業とかは好きでしょうね、きっと。」
—— お手伝いしながらお店の様子を観察してたとも仰ってました。
大輔「だから、昔からそんな感じだったんじゃないですかね。絶えず色んなモノをじっくりと観てるからこそ、もの静かにしてるってゆう。」
—— 色々と吸収してたんでしょうね。
大輔「そうそう。そんな感じなんじゃないかな。」
大学の家政学部~服飾専門学校を卒業、大手繊維商社を経て独立、自らのブランドを立ち上げた玉木は西脇へとやって来る以前の一時期、酒井とともに故郷・勝山に拠点を置いていた。20年前に父・達雄さんに請われて東京から戻りボンタマキを手伝っていた大輔さんはその頃にデザイナーとなった妹と再会する。
大輔「勝山に戻って来て、実家の隣に空家があったのでそこで服づくりとかやってたんですよ。どこから戻ったのかな…大阪やね。一番大変やった時なんじゃないかな。」
—— なるほど。試行錯誤の時期ですね。
大輔「そうそうそう。1年か2年くらいかなぁ、酒井くんと二人で帰って来て、家の隣りに古い3階建てのビルがあるんですけど、その1階でやってましたよ。シャツを創ってたんじゃないかな。あの頃は…売れてたのかどうか。毎晩遅くまでやってたけど、これでやって行けるのか…と思う感じでしたね、うん。」
—— 西脇に来られて播州織の生地を使った最初もシャツ路線だったと思います。
大輔「そうやね。それでショール創って、って流れですよね。昔は内向的ってゆうんじゃないけど、もの静かで、人に心を開く感じじゃなかった。あんまり人前で話すタイプじゃなかったもんね。“かっちゃま”(勝山)に帰って来た頃もやっぱり静かであんまり話もせんかったし。酒井くんが社交的な人間やで、その辺は任せてたんじゃないかな。」
—— 役割分担というか。新雌さんは創る人で。
大輔「そうそうそう。今は違うと思うけど、人と積極的に交わるようになったのもそんな昔の話じゃなくて。何年か前に本人が話してたけど、“出る”ようになったと。講演なんかも頼まれるようになって外向きな人間になっていったんじゃないかなと思うんやけどね。」
—— これからの新雌さんに期待することはありますか?
大輔「好きなようにやってください。兄が言えるようなことは何もないんで(笑)。」
—— 勝山のまちで今、新雌さんが関わっておられることとかあるんでしょうか?
大輔「市で講演とかやってるんじゃないかな。市長と話したり。この前帰って来た時は母校の勝山高校に呼ばれて授業のアドバイザーをしに来てましたね。」
—— それはお一人で?
大輔「仕事じゃないから連れて来れん、って言って(笑)。昔は必ず睦美を連れて帰って来てたけど、今や一人でどこへでも話しに行くんじゃない?」
—— 語るのにも慣れて(笑)。インスタで拝見しても日本全国北から南からドバイへと、あちこち飛び回ってらっしゃいますものね。…本日はお祭りの準備もあって大変にお忙しい中、どうもありがとうございました。
大輔「全く話せるようなことなかったんですけど。」
—— いえいえ、貴重なお話をお聞き出来ました。…あ、どこかお勧めのお店とかありますか?
大輔「勝山で?勝山は蕎麦(そば)ですね。おろし蕎麦!どこでも美味しいと思うけど、(お祭り前の)今日行くのが一番いいと思います。」
インタビューに一区切りついたのが4時半頃。その後大輔さんのご好意で日本一の大きさを誇る越前大仏を観に連れて行ってもらったが、残念ながら冬季は午後4時までということで門が閉められた後だった。
ボンタマキに戻り、先ほどの取材途中接客で席を離れた和美さんにお話の続きを聴き、再び大輔さんになんと今度はお勧めの「のむら屋」さんまで食べに連れて行ってもらって、お店の名物・ふわっとろ玉カツ丼とおろし蕎麦のセットをご馳走になってしまった。。
晩7時からまた左義長祭りの準備へと舞い戻った大輔さん。お忙しい最中にも関わらず色々とお世話になり、本当にありがとうございました。そしてご馳走さまでした。
更に玉木家にお世話になりっぱなし、、なんと和美さんがあくる日午前中に越前大仏を案内してくださることになったのであった。
玉木新雌のルーツを探る「niime百科」勝山紀行。
母親ならではの“玉木新雌深掘り”、和美さんインタビューの続きとともに越前大仏、心浮き立つ「奇祭」左義長祭りの模様に、今や福井県随一の観光スポット・恐竜博物館、地場産業・絹織物の展示が素晴らしい「はたや記念館 ゆめおーれ勝山」も贅沢に巡る、続編へと続きます!!
書き人越川誠司
福井県勝山市。玉木や酒井が生まれ育ったまち。周囲を山々に囲まれ、福井県を貫く九頭竜川が流れる広やかな盆地に位置する歴史豊かな城下町は、現在、「恐竜のまち」としても知られている。
2月の下旬、唯一無二の「一点モノ」作品を日々新たに量産し、ファッションの枠組みを超えて「Nature Brand」を掲げる「tamaki niime」の代表・玉木新雌そして酒井義範を豊かに育んだ故郷を訪ね、この“特異な”ブランドの根源を探る旅に出てみた。
折しも、江戸時代より300年以上の伝統を誇る郷土の一大祭である「勝山左義長まつり」がコロナ禍を経て4年振りに完全復活し開催されるという絶好のタイミング。
「勝山に行くなら左義長の時期が良いですよ。」玉木の実妹である睦美からもそうおススメされていた。
地元市民が自ら「奇祭」と呼び、玉木が幼少期から櫓(やぐら)に登り心弾ませ演じ、酒井が“クレイジー”だと誇らし気に笑みを浮かべるこの祭をぜひとも体感してみたい…今から8年前に雑誌『暮しの手帖』の特集記事を目にして以来、「左義長」に心惹かれていただけに、遂に念願叶った私だった。
玉木家が長年経営する洋装店「ボンタマキ」を訪問し玉木の母である和美さん、兄である大輔さんにインタビュー取材もさせていただいた。
景観・風土・祭・食・織物・寺院・恐竜・文化…そして、何より人。実り多かった今回の旅ですっかりこのまちに魅了されてしまった私。今も滞在の日々が鮮やかにフラッシュバックし興奮と感動がぶり返す、そんな“かっちゃま”(勝山)訪問記を、ここにお届けします!
2月23日午前10時12分。大阪発金沢行きの特急サンダーバードに乗り込み、私は一路福井へと向かった。
この日は天皇誕生日で祝日、3連休のスタートとあって自由席はほぼ埋まっている。湖西線周りの列車は琵琶湖を右手に観ながら快調に走って日本海側の港湾都市・敦賀へ。3月16日のオープン間近、北陸新幹線の高架新駅の威容を見上げる。
新幹線の敦賀~金沢間の開業後は敦賀止まりとなるサンダーバード号は名残惜しい線路をひた走り、12時過ぎに福井駅到着。目指す勝山へはここでえちぜん鉄道に乗り換える。和美さん、大輔さんにボンタマキでの取材を申し込んだ約束の時間は午後3時。
腹ごしらえに駅を出た。3頭の福井産恐竜の実物大モニュメントが県の玄関口である駅前広場でお出迎え。振り返ると駅ビルの壁面にも巨大な恐竜が。「DINASOUR KINGDAM FUKUI」の文字が輝く。福井県立恐竜博物館はこれから向かう勝山にある。玉木の故郷は県イチ推し、振り切った恐竜観光の目玉スポットを持つ街でもあるのだ。
新幹線開業に向けたリニューアル工事が大詰めのJR駅に隣接してえちぜん鉄道の駅もあった。ローカル鉄道らしからぬ、モダンにデザインされた構内。改札で駅員さんに切符にハサミを入れてもらうアナクロ感との落差が愉しい。そしてエスカレーターで高架ホームに登ると待っていた電車は1両のみ。…何やら、西脇市へと走るJR加古川線を彷彿とさせるではないか!
12時55分に各駅停車の勝山行は福井を出発。数駅を過ぎて高架から地表に降りたえちぜん鉄道は途端にローカル線の趣きに。ひなびた無人駅を結んで福井平野をコトコトと走る。若い女性の車掌さんがアナウンスや運賃清算など車内業務を担当している。乗客対応も親切丁寧でほっこり。
名刹・永平寺の最寄り駅・永平寺口の辺りから九頭竜川に沿った谷を一両電車は辿り、白く雪を戴いた峰々が雄大な姿を現した。ダイナミックな景観に目を奪われる。ネットで下調べした時に勝山は日本有数の豪雪地帯とあった。幸いにも平野部に雪はない。明日のお祭り一日目は快晴の予報だ。
やがて緩やかなカーブを描いて流れる九頭竜川に並走する電車の窓から丘陵地にある白銀の巨大な卵型のドームが見えてきた。車内アナウンスはそれが恐竜博物館だと教えてくれる。
午後1時48分勝山着。小一時間の電車旅。ホームへ降りて出迎えてくれたのはレトロな木造の駅舎。年輪を刻んだ勝山駅の建物は大正3(1914)年に旧越前電気鉄道が開通した当時からの歴史ある建築で、国登録有形文化財。勝山市がえちぜん鉄道から駅舎を無償譲渡され改修、2013年に完成したものだそう。昔ながらの改札に面した駅員室や窓口、待合室から漂うなんとも言えない懐かしさといったら!
整備された駅前のロータリーには恐竜博物館直行バスを待つ人の列。駅の施設とバス乗り場の他にはほぼ、なんもない。だが、その簡素な風情が逆にまた郷愁をそそるのだ。勝山の市街地は川向こうにある。グーグルマップで確認すると、市の中心部に位置するだろう目指すボンタマキまでは目の前の広い通りを一本道で、歩いても15分ほどの距離だ。
恐竜の背中をイメージさせる緑色の曲線がうねるデザインの勝山橋へ向いて歩く。堤防に出た。目の前に雪山のパノラマと川幅広くゆったりとくねるような九頭竜川の雄々しい流れ、そして川に沿った段丘に広がる勝山のまち。四方を山に囲まれながらも広々と、悠々とした大地と川面。シンプルこの上ない駅前からの動線の先に展開するこの素晴らしい景観に、私はすっかり魅せられてしまった。ここが玉木や酒井のふるさとなのか!!
歩道の幅もゆったりな橋の上からの眺めがまた素晴らしい。前方左手奥に電車からも見た建築家・黒川紀章が手がけた卵型の恐竜博物館。反対側の右手には仏殿のような大きな建築と五重塔が。ネット検索してみると、大師山清大寺の建物で「越前大仏」を安置する、東大寺を上回るスケールの大仏殿と高さ日本一の五重塔であるとのこと。太古の恐竜化石を展示するモダンアート建築と巨大な寺院建築を両端に置いて、勝山のまちはあるのだった。
橋を渡り切ると恐竜像がお出迎え。目の前の広い通りのあちこちに緑・黄・赤の3色の短冊が吊り下げられ風に揺れている。左義長の飾り付けだ。通りの右側を更に歩くと収納庫から出された櫓(やぐら)のそばを通った。背が高く見上げるほどに立派な舞台だ。駅で手に入れた祭りのガイドパンフレットによると各区ごとにそれぞれの櫓があるようだ。
なお進むと広い通りが急に坂道になり、台地の上に出た。左手にはショッピングセンターが現れた。もうすぐ約束の時間・午後3時。再びグーグルマップで確認するとそろそろボンタマキのお店がある地点。趣きのある瓦屋根が特徴的な2階建ての町家風の建物が目に入る。側面は白く塗られている。店の傍らに立ってこちら方向を見やる男性と目が合った。もしかして…。そう、待ってくれていたのは玉木のお兄さん・大輔さんだった。
営業中の店内へと招き入れられる。入ってすぐ、梁を出し全体が白塗りされた吹き抜けの天井が高い。右手にtamaki niimeのロゴを鮮やかにあしらった大きな白布、その下にショールをはじめ色とりどりの作品たちがレイアウトされている。お母様の和美さんとスタッフの方お二人も待っていてくださった。白を基調に明るくアットホームな空気が居心地良い洋装店の店内。取材中もお客様が切れ目なく訪れる。
「“さぎっちょ”の準備をちょっと抜けて来たんですよ。」柔かにそう話す大輔さん。
「明日あさってが本番で、月曜はまた片付けだから。「左義長」気狂いなんで(笑)。」と、テーブルの隣りで和美さん。
お店もあるし無茶お忙しいタイミングだったな…と、まずは恐縮と反省。汗)
大輔「だいじょうぶだいじょうぶ。うん。」
和美「賑やかで…。一度祭りに西脇の皆んなを招待したいなと思うくらい。」
大輔さんがおもむろにスマホの写真を差し出す。
「これ、新雌。小学生の頃ですね。」
「かわいいでしょ?」とお母様。
大輔「家にあった写真を最近見つけてね。画像データにして取り込んで。」
—— ご本人見てないでしょう?
大輔「見てないけど平気ですよ。これが睦美。」
—— 似ておられますね、やっぱり。
「niime百科」をはじめ数々の取材の機会に玉木が語った勝山での子ども時代のこと。印象的なエピソードについて、ご家族にも聞いてみたかった。
—— 赤ちゃんの頃お店に寝かされていて、お客様に可愛がってもらってた記憶があると聞きました。
大輔「元々はここの場所じゃなくて実家の方で店をやってたんで。ちびっ子の頃ですね、きっと。」
和美「金沢にもお店があったので、籠に入れて連れて行って。そういえば台の上にいましたね。一年ほど。静かなおとなしい子だったから。」
—— 大阪・船場の問屋街への仕入れに一緒に連れて行ってもらい、お気に入りの服を選びコーディネートを愉しんでいたというお話も。
大輔「あれってなんでやろう?学校がない時やったんか?」
和美「春休みだとか、学校がお休みで行ける時に連れてったんだと思います。こっちが商談してる間に勝手に好きなものを選んでたみたいです。」
大輔「いろんな服を売ってる。大西衣料さんとか、プロルート丸光さんとか。」
和美「好き嫌いがはっきりしてて嫌なのは着ないとかね。朝、服を着る時に重ね着でダブつくのがイヤで。ほんとにちっちゃい時から、着心地というか着やすさとかにこだわりがあって朝大変でしたよ、学校に出すのに。」
—— モッサリしてるのがイヤだったと。
和美「そうなんです。スッキリしてないと。」
—— (笑)。お兄さまの方はどうでした?
大輔「僕はそんなこだわりはないです。もうなんでも。」
—— 睦美さんも?
大輔「睦美もこっち寄りかなぁ。」
和美「皆さんからどうやって育てたの?ってよく訊かれるんですけど、なんにもないね…。(笑)。」
—— 自立しているような子どもだったと。
和美「3人兄妹の真ん中だったから、どうしても。世話を焼かない。長男は…。」
大輔「焼かれたな。」
和美「一番下(の睦美)もだいぶ歳が離れてるから焼かれて。真ん中だけほっとかれたもんだから。今にして思えばそれがよかった、って言ってくれてますけれどね。」
—— 私もやっぱり長男なんですが、長男ってわりと大事にされて…
大輔「そう。ねぇ?」
和美「一から十までねぇ。」
大輔「でも…(新雌は)子どもの頃はもうちょっともの静かな人間だった気がする。まぁ、アタマの中は何考えてるのかわかりませんでしたけど。」
金沢に新しい店舗を構えた時に、玉木の亡き父・達雄さんは片道1時間半以上の道のりを勝山から車で通う毎日を始めたという。兄妹が小学生だった頃のことだ。
大輔「朝早く家を出て夜帰って来てまた朝早く出てゆく。小学校から中学、高校…もうずっとです。小学校の頃にワゴンの後ろにマットを敷いて我々子どもたちはそこに寝ながら金沢に連れて行かれた記憶もありますし、それで大阪まで服の買付けに行くみたいな(笑)。今でこそ道が良くなってますけど、昔は山道長いな~と思いながら乗ってた覚えもあります。」
—— もともとはおばあさまがお店を始められたと伺ってますが。いつ頃のお話なんでしょうか?
大輔「どうだろう…80年くらい前になるのかな。」
—— 老舗ですね。
和美「それくらいになるやろね。」
大輔「オカンで50年くらい?」
和美「ちょうど50年目!お祝いせないかんね(笑)。紅白のおまんじゅう?」
—— この場所に移って何年くらいですか?
大輔「ここは僕が小学校の頃やでぇ…42年ってとこやな。金沢はいつやった?」
和美「新雌がまだ生後半年くらいの時にカゴに入れて、そのまま商品の棚に置いてました。だからもう46~7年だと思います。」
—— もともとの始まりはやはり洋装店だったんですか?
和美「衣料と…もともとは“何でも屋さん”やった。昔でいう「百貨店」。家族経営の。」
大輔「今でいうとホームセンターみたいな。色んなものを置いてた。」
和美「毛糸から靴下から、のし紙まで。」
—— おばあさまはどんな方でしたか?
大輔「細かいっていうか…何て言うんやろな?」
和美「おばあちゃんはしっかり者だった。」
大輔「家系やな。ばあちゃんの親から商売を始めて。」
和美「古物商みたいなの始めて。おじいちゃんの方は魚屋さん。おじいちゃんは大人しい人で、言われたまま。」
大輔「そうそう。仕事を手伝う的な(笑)。どっちかって言うとオヤジとオカンもそんな感じやったし(笑)。」
和美「そんなアホな(笑)。私はやさしいよ。」
—— 女性が強いという(笑)。
和美「その血を引いてるんじゃないの?」
—— 子どもの頃の新雌さんてお兄さんから見てどんな風に映ってましたか?
大輔「僕的には静かなヤツだなぁと思ってましたけどねぇ。その頃と比べたらなんかアグレッシブになったなぁとは思いますけどね。内面的にしっかりしてる感じはありました。」
—— 内に秘めたものが。
大輔「そう!やることが細かいというかね。何やるんでもけっこう、キッチリキッチリやってたと思います。勉強とかも。…誰に似たんだろう?」
—— お店のお手伝いでDMの封筒入れをしたとかご本人から聞きました。
大輔「そうゆうのは手伝ったんじゃないかな。僕はやったことない(笑)。まぁ、そうゆう細かい作業とかは好きでしょうね、きっと。」
—— お手伝いしながらお店の様子を観察してたとも仰ってました。
大輔「だから、昔からそんな感じだったんじゃないですかね。絶えず色んなモノをじっくりと観てるからこそ、もの静かにしてるってゆう。」
—— 色々と吸収してたんでしょうね。
大輔「そうそう。そんな感じなんじゃないかな。」
大学の家政学部~服飾専門学校を卒業、大手繊維商社を経て独立、自らのブランドを立ち上げた玉木は西脇へとやって来る以前の一時期、酒井とともに故郷・勝山に拠点を置いていた。20年前に父・達雄さんに請われて東京から戻りボンタマキを手伝っていた大輔さんはその頃にデザイナーとなった妹と再会する。
大輔「勝山に戻って来て、実家の隣に空家があったのでそこで服づくりとかやってたんですよ。どこから戻ったのかな…大阪やね。一番大変やった時なんじゃないかな。」
—— なるほど。試行錯誤の時期ですね。
大輔「そうそうそう。1年か2年くらいかなぁ、酒井くんと二人で帰って来て、家の隣りに古い3階建てのビルがあるんですけど、その1階でやってましたよ。シャツを創ってたんじゃないかな。あの頃は…売れてたのかどうか。毎晩遅くまでやってたけど、これでやって行けるのか…と思う感じでしたね、うん。」
—— 西脇に来られて播州織の生地を使った最初もシャツ路線だったと思います。
大輔「そうやね。それでショール創って、って流れですよね。昔は内向的ってゆうんじゃないけど、もの静かで、人に心を開く感じじゃなかった。あんまり人前で話すタイプじゃなかったもんね。“かっちゃま”(勝山)に帰って来た頃もやっぱり静かであんまり話もせんかったし。酒井くんが社交的な人間やで、その辺は任せてたんじゃないかな。」
—— 役割分担というか。新雌さんは創る人で。
大輔「そうそうそう。今は違うと思うけど、人と積極的に交わるようになったのもそんな昔の話じゃなくて。何年か前に本人が話してたけど、“出る”ようになったと。講演なんかも頼まれるようになって外向きな人間になっていったんじゃないかなと思うんやけどね。」
—— これからの新雌さんに期待することはありますか?
大輔「好きなようにやってください。兄が言えるようなことは何もないんで(笑)。」
—— 勝山のまちで今、新雌さんが関わっておられることとかあるんでしょうか?
大輔「市で講演とかやってるんじゃないかな。市長と話したり。この前帰って来た時は母校の勝山高校に呼ばれて授業のアドバイザーをしに来てましたね。」
—— それはお一人で?
大輔「仕事じゃないから連れて来れん、って言って(笑)。昔は必ず睦美を連れて帰って来てたけど、今や一人でどこへでも話しに行くんじゃない?」
—— 語るのにも慣れて(笑)。インスタで拝見しても日本全国北から南からドバイへと、あちこち飛び回ってらっしゃいますものね。…本日はお祭りの準備もあって大変にお忙しい中、どうもありがとうございました。
大輔「全く話せるようなことなかったんですけど。」
—— いえいえ、貴重なお話をお聞き出来ました。…あ、どこかお勧めのお店とかありますか?
大輔「勝山で?勝山は蕎麦(そば)ですね。おろし蕎麦!どこでも美味しいと思うけど、(お祭り前の)今日行くのが一番いいと思います。」
インタビューに一区切りついたのが4時半頃。その後大輔さんのご好意で日本一の大きさを誇る越前大仏を観に連れて行ってもらったが、残念ながら冬季は午後4時までということで門が閉められた後だった。
ボンタマキに戻り、先ほどの取材途中接客で席を離れた和美さんにお話の続きを聴き、再び大輔さんになんと今度はお勧めの「のむら屋」さんまで食べに連れて行ってもらって、お店の名物・ふわっとろ玉カツ丼とおろし蕎麦のセットをご馳走になってしまった。。
晩7時からまた左義長祭りの準備へと舞い戻った大輔さん。お忙しい最中にも関わらず色々とお世話になり、本当にありがとうございました。そしてご馳走さまでした。
更に玉木家にお世話になりっぱなし、、なんと和美さんがあくる日午前中に越前大仏を案内してくださることになったのであった。
玉木新雌のルーツを探る「niime百科」勝山紀行。
母親ならではの“玉木新雌深掘り”、和美さんインタビューの続きとともに越前大仏、心浮き立つ「奇祭」左義長祭りの模様に、今や福井県随一の観光スポット・恐竜博物館、地場産業・絹織物の展示が素晴らしい「はたや記念館 ゆめおーれ勝山」も贅沢に巡る、続編へと続きます!!
Original Japanese text by Seiji Koshikawa.
English translation by Adam & Michiko Whipple.